セイレーンの歌声

海に向かって叫ぶ夢を見た。
ロズワールの頭の中に響く波の音、体に感じる船の揺れと頬をかすめる冷たい風、目の前に広がる星の海と泣きそうな横顔。
目が覚めるとそれは全て泡沫のように消え去り、いまとなっては思い出せないでいた。
あのとき俺は何を叫んだのか、誰が隣にいたのか、どうして泣きそうな顔をしていたのか…夢の中の俺は泣きそうな顔の誰かに何かを言ったのかもしれない。もしくは泣きそうな誰かを慰めていたのかもしれない。 今となっては思い出せない夢ではあるが。
あの夢の続きが、あの誰かが、気にならないといえば嘘になる。

「おはよう、ロズ。いや…もうこんにちはの時間か」

バルド・グラン=レオンが船長の海賊船、レオン・ハウル号は今日も航海を続ける。波に揺られるのには慣れた…だが、この心の隙間を縫うような風はどうも不快だ。ぼんやりと夢の内容を思い出そうとしながら昼食のキッシュを切り分けていると、思考を邪魔するように声をかけられた。 チラリと視線を向けるとフードを深く被った男がにっこりと笑っていた。こいつが来るといつもどこからともなく風が吹いて髪や肌をかすめていく。俺はこれが不快でたまらない…まるでこっちの様子を伺われてるみたいだ。

「…何だ。昼飯なら自分で取りに行け」

「気にしてくれるの?うれしいね。でもお昼ならさっき食べた。ただ、副船長様はどんな昼食をとってるのか気になってね?」

「ふん…気にしてなんかいない」

当たり前のように隣に掛けるコイツはカラヴィエ・ヴォルグ。自らを"風に選ばれし者"と呼ぶ風使いの魔術師。少し前に海の上を小舟で漂っていたところを船長が助けたのだ。特に仲良くなった覚えはないのに、カラヴィエはいつもいつも俺の周りを付きっていた。いや"付き纏わせて"いた。

あの頬に触れる風は間違いなくカラヴィエの能力だ。何がしたいのか、いつもコイツが来ると俺にだけ風が吹く。
俺はそれが嫌いだ、不愉快だ。

ーそれなのに。

×

「……ふぅ」

フワリと吐き出された煙は夜空の海へと溶けていく。
海の真上、当たり前だが外灯なんてあるはずもなく、月の光と星の明かりだけが頭上から降り注いでいる。
俺はこの時間が好きだ…今夜だって誰にも邪魔されない静かな時間、のはずだった。
眠れない夜は外に出て気分転換をするに限る。自室を抜け、タバコを咥えてデッキへ出ると波の音に紛れて何かが聞こえた。柔らかな音に誘われるように首尾へ近づいたところで、またあの風が吹いた。

頬を撫でるあの忌々しい風。

まるで何かを訴えるような、冷たく、寂しい風が心の隙間を通り抜けていく。

「……チッ」

犯人はわかっている。
俺の目の前。
フードを脱ぎ、金髪を月光に晒しながらデッキの中央に立つ影。空を見上げ、透き通った声で歌うその姿は今にも月の光に隠されてしまいそうだった。あれは魔術師なんかじゃない。
海に現れ美しい歌声で船乗りを魅了し遭難させると言われているセイレーンのようだった。男から発せられるとは思えないほど軽く柔らかく透き通った歌声はまるで眠ることを知らない星々に子守歌を歌うかのように夜空と、俺の心の隙間に溶けていく。
光を受け淡く光る翠玉色の瞳は、まるで尊い物を見つけたように星々を捉え、時折指先を伸ばしながら美しい歌声を響かせた。その言葉は聞いたことのない異国の言葉。

それはまるで届かぬ思いを誰かへ伝えているように儚く聞こえた。
何を伝えようとしているのかは分からない、それなのに「美しい」と「儚い」と思えるのは、カラヴィエ自身が美しく儚いからか…それとも別の何かが要因なのか。

―別の要因なんて考えたくもない。
考えたくもないし関わりたくもないのに歩み寄る足は自然と歩幅を広げ、伸ばした手は迷うことなく夜空へ歌うカラヴィエの肩を掴んだ。普通ならば驚くだろうが、コイツは驚くどころか待っていたと言いたげな顔で振り向き笑みを浮かべた。

「こんばんは、ロズ」

「こんな時間に何している」

「見ての通り歌ってたんだよ」

見て分からない?とでも言いたげに笑って首を傾げる姿に眉を寄せて手を離せば、カラヴィエはまた空を見上げた。ポケットから引っ張り出した携帯灰皿に灰を落とし、タバコを咥えながら横目に翠玉の瞳を見つめる。反射する星々が瞳を潤ませているようにも見え、今にも泣きそうな顔に見えた。

―泣きそう…?

ふと、夢を思い出した。
泣きそうな横顔、あれはまさか?いや…そんなわけない。
自分の中に浮かんだ可能性を、答えを、自ら握り潰し視線を落とす。しかし感じた疑問を自らの内側に留めて置くことは出来なかった。

「お前…俺の夢の中に出てきたか?」

こんなことを聞いてどんな答えを求めているのか。それよりもこんなことを聞いたところで返ってきた答えに対してどうしたらいいのか。何も考えないままに口にしてしまった質問に少しだけ後悔しながらカラヴィエに視線を戻せば、驚いたように大きく見開かれた瞳がゆっくりと細められた。かと思えばバサッと音を立ててフードの下に隠れてしまう。顔を覆うその下でどんな表情をしているのか…それを無理に見るつもりは無いが、どんな顔をしているのかと気になってしまった時点で俺の船は霧がかった向こう側へと舵を切り、その船体はゆっくりと音を立てず沈み始めていた。
どんなに藻掻いても、もう無駄だ。沈み始めた船を再び浮き上がらせ惹かれ始めた本心を無視するだけの力も知恵も技術もない。
風使いセイレーンは微かに微笑んで離れていく。まるで沈む船を置いていくように。
そして、その柔らかな声は確実に深海へと誘う。

「俺、起きてる時だけじゃなくて夢の中でもロズに会いたいって思ってるよ」

すれ違いざまの甘い歌声ひとことは俺のふねを完全に沈めた。
×

「おい、ロズワール。何ぼーっとしてんだ」

翌日、昼。
ぼんやりと昼食をとっていた所に声をかけてきたのはこの船の船長、バルド・グラン=レオンだ。まだ真昼だと言うのにその手には酒瓶、もう半分しかないのは昨日の残りだからか…それともここに来るまでに飲んでしまったからか。寝不足の頭に船長のガサツな大声は堪えるのだが。

「いや、少し寝不足なだけだ」

「お前が?珍しいな。なんだぁ?恋煩いか?」

「………ち、がッ…」

いつもなら違うと冷たくあしらうように即答するはずのロズワールが、珍しく言葉を詰まらせた。その姿をじっと見つめれば自然と顔がニヤついてしまう。とうとうこの堅物副船長に春が来たということか。

―となると…その相手は。

居るはずもない姿を探すように周囲に視線を向け、大きく息を吸った。

「おーい、カラヴィエー」

「ッ……!」

「…………は、ここにいねぇか」

鎌をかけるように魔術師の名を呼ぶ。途端、明白あからさまに反応を見せたロズワールは勢いよく立ち上がって周囲を確認する。しかし此処にカラヴィエが居ないことに気づくと段々顔を赤くなっていった。普段の鉄仮面はどこへやら、見たこともないほどに赤面した姿に笑いを堪えきれなかった。

「がはははは!どうしたらロズワール、顔が真っ赤だぞぶっ!!」

不意を突いて勢いよく放たったロズワールの右フックは迷うことなくバルドの左頬を捉えた。分かっている、船長がこんなことで蹌踉よろめくような男では無いことを。だからこそ、握りしめた拳と全力の右フックを喰らわせられるんだ。
「だ、だっ、だ、だれのっ!!誰の顔が赤いと言うんだ!!」
「その喧嘩っ早いのをどうにかしろ、ロズワール。あと顔が赤いのはテメェだ」
鏡見てみるか?と笑うバルドに何も言い返せない。腕を下ろし、乱暴に椅子をしまって逃げるようにその場を離れてしまった。
顔に感じる熱とうるさい程に早鐘を打つ心臓…うるさい、うるさすぎる。
こんな顔を自分で確かめる勇気も誰かに見せる勇気もなく、人目を幅かるように自室への通路を歩く。この顔の熱も、心臓の音もどうにかして止めなければいけない。部屋に戻って本でも読めば落ち着くだろうと通路の角を曲がった瞬間、ドンッと正面から誰かがぶつかった。
背の低い誰かは後へ傾く。反射的に腕を伸ばして誰かの腰に腕を回して支えれば、翠玉の瞳と目が合った。

宝石のように透き通った色を見つめ、数秒の硬直。

「ッ………!!」

「ロ、ロズ…?」

向こうも不意だったのだろう。何も言わず視線を合わせてしまったこちらの名前を呼ぶなり、見る見るうちに顔が赤くなっていくのがわかる。白い肌は見たこともないくらいに赤みを帯び、ポカンと開いた口からは浅く呼吸が漏れていた。腰に腕を回したまま…長く感じた10秒ほどの間で思考を巡らせる余裕などなく、相手がカラヴィエだと認識した瞬間、反射的に腕を引いてしまった。再び傾いていくカラヴィエの体…しかしコイツは俺の腕を掴んで巻き込んだ。

「おいっ!」

振りほどく暇もなく腕を引かれ前へと傾く。小さな体の上に落ちないよう咄嗟に倒れたカラヴィエの顔の横に手を付いて衝動を免れれば、俺の体が光を遮った。薄暗い中でも美しい色を放つ翠玉の瞳はまっすぐ俺の目を見つめた後、ごめ…と小さな謝罪混じりにフードに隠される。

「…す、すまん…… 怪我はないか」

「だ、大丈夫…」

ごめん、咄嗟に引っ張っちゃった…と蚊の鳴くような声で告げられる。どう返せばいいか、謝罪の言葉と気遣う言葉を探しながら上体を起こすとカラヴィエも続いて勢いよく体を起こし立ち上がった…かと思えば、ごめんなさい…!と走り去った。
謝罪、気遣い、そして引き止める言葉…どれも正解が見つからないまま、俺はただ、走り去る背中を見ることしか出来なかった。

×

あの後、部屋に戻って本を読んでもお気に入りのコーヒーを飲んでも・・・何をしてもあの翠玉色と肌を染める赤い熱を忘れられなかった。夕食の時間も酒盛りの時間も・・・自然と俺の目は彼奴を追っていた。

「今日は雨は降らないから大丈夫。この風だと・・・」

航海士のクルーと肩を並べ、地図を手に空を見上げる姿を見ながら酒の入ったジョッキを握りしめる。俺だけに感じるはずの風、俺にだけ“特別に”吹いていた風を今あの航海士が感じているのかもしれない。自分だけの柔らかな風じゃなくなるかもしれない・・・そう思うだけで軽く胸が締め付けられた。

「・・・・・・馬鹿が」

他の誰でもない、自分に向けた一言。
風は自由に吹くもののはずなのに、今それが自分に吹いていないと思うだけでどこか腹立たしい。

俺の船はもう完全に沈みきって、海底の奥深くの砂の上にその船底をつけていた。
それでも俺はまだ気づかないフリをしていた。

船長を中心に盛り上がった酒盛りは夜の帳が完全に降る頃には収まり、月の光が真上に見えるこの時間になると波の音だけが穏やかに響いている。
風のないデッキの上、俺は音もなく煙を吐き出しながら風を待った。

あの風は今夜も必ず吹く。

確信はない、だけど自信はあった。
あいつの事だ…必ずここに来る。
そう空の海を見つめながらゆっくりと潮の匂いを吸い込んだ時、あの風が頬を撫でた。

「♪〜♪♪〜」

潮風に乗って聞こえる柔らかな歌声。
もうここに沈む船はないというのに、その歌声は静かに波を荒立てながら月の光さえも届かない深い海の底へ船だけでは飽き足らず乗組員までも引きずり込むようだった。
声に振り向かないまま目を伏せ、透き通る声を聞く。トン…と背中に寄りかかられる重みを感じるも何故かそれすら心地よく感じるのは、もう水面に浮かび上がることが出来ないほどに深いところまで落ちてしまったからだろう。
澄んだ歌声は柔らかく途切れ、背中に感じる微かな体温は更にその身を委ねてきた。
俺が悪戯に一歩踏み出すかもしれないのに…そんな危機感は持っていないようだ。

「ねぇロズ・・・」

柔らかな風が頬を撫で、髪の毛先を優しく揺らし潮の匂いを運ぶ。
不快で忌々しく、止んでしまえばいいと思っていた風を・・・今や待ってしまう俺がいた。
コツンと指先が触れあい、細く滑らかな指先は遠慮がちに俺の人差し指を握る。

これを握り返せば後戻りはできない・・・否定し、見て見ぬふりをしていた感情と向き合うことになる。

セイレーンはその歌声で船乗りを魅了し、船ごと海の中へ誘うという。

「・・・俺、ロズのこと好きだよ」

甘い歌声は俺の船を、俺自身を・・・深い深海へと誘う。

「ロズも⋯」

聴いてしまえば最後、もう逃れることはできない。

そろそろ認めてくれる?おれのことすきなんでしょ


― END ―
あとがきなど
最後まで読んでいただきありがとうございます。
こちらは診断メーカーの「あなたに書いて欲しい物語」という診断の結果を元に書いた作品でした。
初めてまともに書き上げた話と言っても過言ではないかもしれません。
close
横書き 縦書き